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それからのゆりこはとても充実していた。
心身にエネルギーが漲り、ミチルとも健全に逢瀬を重ねた。
ミチルの父親の問題は口には出来ず、それだけが頭蓋にひっかかっていたがただそれだけだった。
一枚のシャツが物干しから落ちてしまったくらいの事柄だった。
ミチルは肉体と精神をギラギラさせてゆりこを抱きしめ、屹立し貫いた。
二人が抱き合っている間に季節は移ろいで、上着を着ていると汗ばむ日が少しずつ増えた。
ある日、ミチルはこう言った。
「一緒に父さんに会ってくれない?」
それから付け足した。
「素敵な場所とは言い難いけれど、周りは緑がいっぱいだし、僕も正社員になったことを伝えたいんだ」
ミチルの血の繋がった父親が民田であったとしても、彼の本当の父親は病院にいる。
それ以外に真実はない。
真実というのは時として事実とは違う。
それでも、その人が見る心の風景が真実と語っているのならばそれは真実でいい。
ゆりこは驚くべき寛容さと適応力を身につけている自分に驚いた。
わたしが自分を守るためにそのように思ったとしても構わないわ。
そうだよ、構わないよ。
ヂヂが静かに心に浮かぶ。
バスを降りて、林道を行く。
とても暖かい日だった。太陽は春を感じさせるに充分な明るさを持ち、風によって葉が揺れる。
小さな「ざぁぁ」という音で耳が満ちていく。
二人は緑の下をするすると歩いた。
傾斜が二人の脚を疲労させたが、それは心地の良いものだった。
木陰で休憩し、口づけを交わした。
その度にミチルは周りを気にしながら、ゆりこの胸に触れた。
ふふふという柔らかな微笑が林道を通りすぎた。
父親が入院しているという病院は古い建物だった。
コンクリートと格子の入った窓が禍々しさ(まがまがしさ)を感じさせる筈だったが、ゆりこには繊細な人々を守るために存在する結界のように思えた。
薄暗い廊下を歩く。
彼の父親はどんな人だろう?
どんな風に狂っているのだろう?
すれ違う看護婦達は微笑みを忘れず、すれ違う患者達はそれぞれの世界に没頭していた。
壊れやすい精密な手作り楽器が歩いているような印象だった。
ゆりこは恐ろしいくらいに温かな気持ちで歩いた。
その扉には鍵がかかっていて、ミチルが記録室と書かれた部屋の看護婦に声をかけると扉は開いた。
ミチルの背中から辺りを恐る恐る見回したが、それまでの印象と何も変わらなかった。
別に恐ろしい殺人鬼がいるわけではなかった。
手作りの楽器のような人々がいるだけだった。
ある部屋の前でミチルは立ち止まり、どうぞと言ってゆりこを中に入れた。
「こんにちわ」
ゆりこは声をかけた。
その人はゆっくり振り向いた。
シャツとスラックスを着た老人が居た。
彼は優しく痩せていて、不思議そうに顔を傾けた。
理解できない事象を目にした子供のようだった。
「父さん」
ミチルが声をかけると
「ミチル。ああ、ミチルか。300番台になっていたんだね」
「元気にしてた?」
「ミチル。父さんはいつも元気だ。お前が心配だ。300番台は早く抜けなさい」
「わかった。わかった。父さんも元気そうで何よりだ」
「それより、僕は正社員になったんだよ。晴れて社会人だ」
ミチルの父親は静かに微笑んだ。
ひとしきり会話をした後で(その会話は時に繋がり、時に成立していなかったけれど)、ミチルは持ってきた菓子折りをスタッフに届けるために部屋を出ていった。
ゆりこは自己紹介を忘れていることに気づいて、
「ゆりこって言います。ミチルさんとは仲良くしていただいてます」
と頭を下げた。
ミチルの父親は不思議そうにゆりこを見つめ、静かに言った。
「友達は大丈夫だ。心配しなくていい」
ゆりこはヂヂのことを言われたのだと思った。
彼に言われると、本当にそんな気がした。
ゆりこはパイプ椅子に座って、ミチルの父はベッドの端に腰掛けていた。
会話はなかったけれど、窓からの光が作るリノリウムの床の陰影を眺めていると心が落ち着いた。
ミチルは長いこと戻ってこなかった。
心配になったのでゆりこは部屋を出て、記録室まで見に行くことにした。
記録室を覗いたが誰も居らず、机の上に書きかけのカルテが開いているだけだった。
記録室の前の部屋を豆大福のようなお婆さんが熱心に覗き込んでいた。
ドアの上には診察室とプレートがかけてあった。
近づいてみるとお婆さんは、
「クルクルと回転する中の一つですよ」
と顔をクシャクシャにして笑った。
お婆さんが指差した先にはドアのカーテンの隙間があって中が覗き込めた。
その向こうではミチルが診察ベッドに横たわり、その上に看護婦が跨っていた。
真っ白なストッキングが足首までずらされ、ファスナーが半分まではだけて下着に隠された乳房が覗いていた。
乳房は白く圧倒的な質感を備えているのに、上品で清らかだった。
ミチルは目を閉じて唇から吐息が漏れていた。
その行為はガラス越しのプリズムで、神聖さすら称えていた。
お婆さんが背中を叩くので振り返ると、また満面の笑顔だった。
ゆりこも満面の笑顔を返した。
ミチルを責める気持ちはなかった。嫉妬もなかった。
夢を見ているような、粘膜に包まれているような気持ちだった。
ゆりこはお婆さんを顔を寄せ合い、いつまでも一緒に覗いていた。
バイツ 了。
【2010/05/19 13:37】 官能小説「バイツ」 |
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